お城好きにも色々ありまして、自分は基本的に美しい天守閣や櫓・石垣を見てそこで写真を撮るのが趣味であります。 天守閣も現存の国宝・重文から、復元天守(外観・規模共に旧状の通り設計され再築されている天守)、 または復興天守(古絵図・資料等を参考に、旧状の正確な数値が不明な建物を想像で再築した天守)、 さらには模擬天守(観光などを目的として実在した建物の旧状を無視し新たな意匠で建てられた天守)、 とありますが、現存の天守は歴史的意味合いが深く格別な風格もあり、是非とも一度は訪問すべきではありますが、 たとえ観光目的の模擬天守であったも天守閣自身が美しければ、またそれも趣があると思います。 |
目 次 (行ってみたいお城リスト) | ||
(百):日本100名城 (続百):続日本100名城 | ||
現存天守・国宝 | 姫路城 犬山城 彦根城 松本城 松江城 | |
現存天守・国重文 | 丸岡城 備中松山城 丸亀城 伊予松山城 宇和島城 高知城 弘前城 | |
東海地方 | 愛知 | 名古屋城(百) 犬山城(国宝・百) 清洲城 岡崎城(百) 吉田城(続百・豊橋市) 小牧城(続百) 田原城 旭城(尾張旭市) 竜泉寺城(守山区) 足助城(豊田市) 田峯城(設楽町) 拳母城(豊田市) 岩崎城(日進市) 大野城(常滑市) 大草城(知多市) 西尾城 本證寺(安城市) |
岐阜 | 岐阜城(百) 大垣城(続百) 墨俣城(大垣市) 郡上八幡城(続百・郡上市) 岩村城(百・恵那市) 小倉山城(美濃市) 苗木城(続百・中津川市) 大桑城(山県市) 神岡城(飛騨市) 美濃金山城(続百・可児市) 久々利城(可児市) 明智城(可児市) 稲葉城(八百津町) 竹中氏陣屋跡櫓門(垂井町) |
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三重 | 伊賀上野城(百) 亀山城 桑名城 津城(続百) 松坂城(百) 田丸城(続百・玉城町) 赤木城(続百・熊野市) |
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静岡 | 浜松城(続百) 掛川城(百) 駿府城(百) 小山城(榛原郡吉田町) 二俣城(浜松市天竜区) | |
関西地方 | 滋賀 | 彦根城(国宝・百) 長浜城 安土城(百) 水口城(甲賀市) 小谷城(百) 佐和山城 膳所城 |
京都 | 二条城(百) 伏見桃山城 福知山城(続百) 丹後田辺城(舞鶴市) 青龍寺城(長岡京市) 園部城 | |
奈良 | 大和郡山城(続百) | |
大阪 | 大阪城(百) 岸和田城(続百) 池田城 | |
和歌山 | 和歌山城(百) | |
兵庫 | 姫路城(国宝・百) 洲本城(続百) 赤穂城(百) 明石城(百) 竹田城(百・朝来市) 出石城(豊岡市) 篠山(ささやま)城(百・篠山市) 尼崎城 波賀城(宍粟市) |
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甲信越地方 | 長野 | 松本城(国宝・百) 高島城(続百・諏訪市) 上田城(百) 小諸城(百) 松代城(百) 高遠城(百) 大峰城(長野市) 和田城(飯田市) |
新潟 | 新発田城(百) 高田城(続百・上越市) | |
北陸地方 | 福井 | 丸岡城(重文・百) 越前大野城(続百) 福井城(続百) 北ノ庄城 一乗谷城(百・福井市) |
石川 | 金沢城(百) | |
富山 | 富山城(続百) | |
中国地方 | 岡山 | 岡山城(百) 備中松山城(重文・百) 津山城(百) 鬼ノ(きの)城(百・総社市) 周匝(すさい)茶臼山城(赤磐市) |
広島 | 福山城(百) 広島城(百) 三原城(続百) 尾道城 因島水軍城 | |
山口 | 岩国城(百) 萩城(百) | |
鳥取 | 鳥取城(百) 河原城(鳥取市) 寿城(米子市) | |
島根 | 松江城(国宝・百) 津和野城(百) | |
四国地方 | 香川 | 高松城(百) 丸亀城(重文・百) |
徳島 | 川島城 日和佐城 撫養城(むやじょう) 徳島城(百) | |
愛媛 | 伊予松山城(重文・百) 宇和島城(重文・百) 大洲城(百) 今治城(百) 川之江城 | |
高知 | 高知城(重文・百) 中村城(四万十市) | |
九州地方 | 福岡 | 小倉城(続百) 福岡城(百) 久留米城(続百) |
佐賀 | 唐津城(続百) 佐賀城(百) | |
長崎 | 島原城(百) 平戸城(百) 金石城(対馬市) | |
熊本 | 熊本城(百) 人吉城(百) 八代城(続百) | |
大分 | 中津城(続百) 杵築(きつき)城(続百) 臼杵(うすき)城(続百) 府内城(百・大分市) 岡城(百・竹田市) | |
鹿児島 | 鹿児島城(百) | |
関東地方 | 神奈川 | 小田原城(百) |
東京 | 江戸城(百) | |
千葉 | 大多喜城(続百) 館山城 関宿城(野田市) 千葉城 久留里城(君津市) | |
その他 | 忍城(続百・埼玉県行田市) 宇都宮城(栃木県) 土浦城(続百・茨城県) 高崎城(群馬県) 甲府城(百) | |
東北地方 北海道 |
福島 | 会津若松城(百) 白河小峰城(百) 二本松城(百) |
山形 | 山形城(百) 上山(かみのやま)城(上山市) | |
宮城 | 白石城(続百・宮城県) 仙台城(百) 涌谷城(遠田郡涌谷町) | |
秋田 | 横手城 五城目城(南秋田郡) 久保田城(百・秋田市) 天鷺(あまさぎ)城(由利本荘市) 稲庭城(湯沢市) | |
青森 | 弘前城(重文・百) 三戸(さんのへ)城 | |
北海道 | 五稜郭(百) 松前城(百) | |
おも城 | 札幌かに本家 豊田城店 ぎふ初寿司 大垣店 珍品城(養老町) 道の駅 織部の里もとす 藤橋城 大西城(白鳥町) ミニチュア姫路城(伊勢市) 模擬安土城(伊勢市) 松阪の天守 小田陸閘(伊賀市) 道の駅 信濃路下條 熱海城 下田城 模擬勝山城 太秦映画村 カレス城(天理市) 湯浅城(和歌山県有田郡) 模擬尾道城 米子お菓子の壽城 |
現存天守・国宝 |
姫路城(白鷺城) 世界遺産・国宝 | |||||||
関ケ原の合戦後、池田輝政が今日に見られるような日本一の名城を築き上げた。城郭建築の最高技術を駆使した城で、その巧みな縄張りによって城域全体が一つの大要塞を形成している。それにもかかわらず、天守をはじめすべての建造物は壁や軒裏に至るまで純白に仕上げられ、城にありがちな威圧感とは異なって白亜に輝き、女性的な優雅な香りを感じさせる名城である。白鷺が翼を広げたような華麗な姿が人々を魅了し、白鷺城とも呼ばれている。大天守と小天守が巨大な木造造りであるため、日本の木の文化を代表するものとして、平成5年、法隆寺とともに日本で始めてユネスコの世界文化遺産に登録された。 | |||||||
西の丸より | この角度からが一番美しい | 「いの門」と思われる | 2007.6.13 | ||||
平成の大修理(平成21年10月〜 平成26年3月27日、内部公開再開)後の天守 2015.4.20 ・事業費28億円の内、国が18億円で市が10億円負担。市は寄付金を募集しその合計は4.5億円集まったそうです。詳細 ・白すぎる天守が評判だったが、あいにくの天候のため想像以上の白さではなかった・・・ |
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2016.1.1 | |||||||
犬山城(白帝城) 国宝 | |||||||
尾張藩付家老 成瀬氏3万5千石の居城。 木曽川に臨む唐破風の華やかな天守の眺めを称えて「白帝城」と名付けたのは、元禄時代に犬山城を訪れた儒学者・荻生徂徠である。 |
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2009.8 | 2009.9 | 2011.4 | 2011.8 | ||||
2015.06.21 | 2016.01.03 | ||||||
2017.4 | 2017年7月の落雷により「しゃちほこ」損傷 2017.9.24 | 2024.4 | |||||
彦根城 国宝 | |||||||
井伊氏35万石の居城。 国宝の天守は京極高次が築いた大津城の天守を移築したものといわれている。 |
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井伊直弼と開国150年祭の一環? ひこにゃんの撮影会 2009.5.31 |
桜と天守閣 | 重要文化財 天秤櫓と廊下橋 | |||||
重要文化財 西の丸三重櫓および続櫓 | 重要文化財 二の丸佐和口多門櫓 | 大名庭園の玄宮園(国名勝)から天守を望む。 | 桜と屋形船と天守閣 2022.4.10 | ||||
松本城 国宝 | |||||||
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。現存12天守の中では唯一の平城。 元・徳川家康配下で、豊臣秀吉の重臣となった石川数正・康長親子が入城し、今に見る壮大な天守閣を築城。のち、戸田、松平、堀田、水野と代わり、1726(享保11)年からは戸田氏(6万石)で幕末を迎えた。 独特な形状の天守閣に月見櫓が突き出ている。この月見櫓は、3代将軍家光の善光寺参詣が計画され、将軍を迎えるために松本城を増築したと伝えられている。将軍の訪問は実現しなかったが、開放的な造りで、三方が吹き抜けとなっていて、眺望が良い。大天守や小天守の造りに比べて、防御性がなく、戦乱の収まった安定した時代の建築様式だ。朱塗りの回縁や、刎(はね)高欄を巡らすなどの意匠を凝らし、天守群の姿に、美的ポイントを加えている。ここから眺める月はすばらしいとのことだ。 |
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2011.8.15 | |||||||
2021.3.7 北アルプスの山々がキレイ。埋橋は渡れなくなっていた。マスコットキャラの名は「アルプちゃん」 解説板 | |||||||
内堀を渡ったところにある「二の門」と、本丸御殿に入る格調高い一の門(黒門)で桝形を形成 | 「二の門」と、二の丸御殿に通ずる一の門(櫓門)に太鼓楼があったことから、太鼓門桝形の由来。門の南側には巨石あり。 | 天守内部 最上階からの眺めは最高。天守四階には御座所、急階段 | 月見櫓は開放的。辰巳附櫓には花頭窓。出口を出たところに武将が。 | ||||
松江城(千鳥城) 国宝(2015.7.8に指定) 2016.1/1 2016JR西日本紀行 | |||||||
堀尾吉晴が築城した。堀尾吉晴は、信長・秀吉・家康に仕え、関ヶ原合戦の戦功により吉晴・忠氏父子は出雲・隠岐24万石を与えられ慶長16年(1611)に完成したが、堀尾氏が3代で嗣子無く断絶した後、京極忠高、松平直政と城主が代わり、以後は松平氏の治世下で明治維新を迎えた。 昭和30年代に、国宝指定に向けての運動や陳情があったが国宝指定には至らなかった。現市長が松江城の国宝指定も公約に掲げて2期目に当選した2009年以降、国宝指定に向けての調査・運動が活発化、懸賞金を掛けて史料を探していたが、平成24年に松江神社で国宝指定に重要な築城時期を特定できる「慶長拾六年正月吉祥日」などと書かれた祈祷札が見つかった事から国宝指定された。 |
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復元櫓 / 堀尾吉晴像 大手門跡と太鼓櫓 / 本丸一ノ門と南多聞櫓 |
定番の撮影ポイント | 天守 | 藩主系図 / 天守内部 宍道湖眺望 / 入母屋破風の紋 |
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裏手から見ると、また違った印象がある。 | 忍者パフォーマンス | 野面積石垣。松江城は5年間で完成したが、そのうち3年間は石垣積に費やした。 | |||||
2024.4 さくら満開の松江城 |
現存天守・国指定重要文化財 |
丸岡城 国指定重要文化財 2014.7.6 | |||||||
天正4年(1576)に柴田勝家の甥の勝豊によって築城され現存する天守の中で最古のものと言われている。 現存する二重三層の天守閣がこの時期に建築されたかについては諸説あるが、1階と2階が通し柱でないなどの特徴は慶長後期の天守閣に見られ慶長18年(1613)ごろの建築ではないかとも言われている。 元禄8年(1695)に糸魚川から有馬家が5万石で入城し幕末に至るまで8代続いた。 外観は二層、内部は三層の望楼型天守閣で石垣は”野づら積み”という古い方式で、すき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないと言われている。 |
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明治時代に各種門や石垣・樹木が売り払われ、天守閣のみ残ったらしい。 | 天守の最高階は、回廊付の望楼。 屋根が石(笏谷石:しゃくだにいし)で葺かれているのも特徴。 |
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備中松山城 国指定重要文化財 2018.4.22 | |||||||
標高430mの臥牛山(がぎゅうさん)山頂に現存天守閣があり最も高い所にある山城。 戦国時代にはこの地は毛利氏が支配していたが、江戸時代になってからは備中代官が設置され、その後池田家・水谷家が入封し城下町の整備もされていった。水谷氏が断絶すると赤穂藩より一時的に大石内蔵助良雄が1年ほど預かり、安藤家・石川家を経て1744年に板倉家が五万石で入場すると以後明治維新まで続いた。 復古図 国指定板 |
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木造本瓦葺きの二層二階の天守だが、なかなか立派な風格がある。 岩盤の上に石垣を整備しその上に天守閣を建立。見応えがある。 |
本丸二重櫓 国重文 |
迫力のある三の丸石垣群。 三の平櫓東土塀も国重文。 |
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丸亀城 国指定重要文化財 2021.10.26 | |||||||
標高66mの亀山を縄張りとする平山城。現存天守の中では15mと最も小さい三重三階の天守閣や大手一の門や二の門は国の重要文化財。 1597年、高松に入った秀吉配下の生駒氏隠居城として築城、1615年の一国一城令に伴い廃城となったが、1641年に新たに山崎氏が5万3千石で入場し再建が始まるが三代続いた後、世継ぎ無く改易に、1658年に京極氏が6万6千石で入場し、明治維新まで京極氏が城主を務めた。 丸亀城の歴史・年表 京極家をめぐる戦国の人々 京極家略系図 |
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藩主居館の表門だった玄関先御門と天守との調和が素晴らしい。 | 玄関先御門から進むと、観光案内所前に京極くんキャラクター、見返り坂を登り切った所から石垣の美しさが見てとれる。石垣の美。その先の生駒坂を登ると絶景が広がる。2018年10月に夏の豪雨や台風の影響により南西部の石垣が崩落し現在も修復作業中。 | ||||||
京極坂を登ると、本丸と天守へ。天守は四国に残る現存天守の中で最も古い1660年に完成。唐破風や千鳥破風を巧みに配置し白塗壁とあいまって小ぶりながらキレイなお城。天守最上階から瀬戸大橋も眺望でき絶景。 | |||||||
月見櫓跡から見る飯野山(讃岐富士) | 城郭北西側の京極通りからの入口。大手二の門の奥に大手一の門、山頂には天守。 | 大手二の門は高麗門形式。大手一の門は威厳と風格を備えた櫓門で大きな桝形を備えている。平成18年から太鼓を9回たたき、正午(九つ時)を知らせる「時太鼓」が復活している。 | |||||
弘前城 国指定重要文化財 2023.4.19 | |||||||
弘前城は津軽統一を成し遂げた初代藩主津軽為信が1603年に築城を計画したが、まもなく他界、二代藩主の信牧によって1610年築城を開始し、 わずか1年ほどで城はほぼ完成し、廃藩に至るまでの260年間、津軽氏代々の居城として発展した。 天守・櫓・城門が数多く現存し、本丸・二の丸・三の丸や付属する曲輪など縄張りの保存状態が抜群。 明治28年から弘前公園として一般開放され、現在は日本一の桜の名所としての呼ぶ声が高い。例年はGW頃が見頃だが、この年は既に散りかけ。 |
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元々は本丸南西隅に五層の天守が建てられていたが、1627年落雷により焼失。 天守案内板 現在の天守は、焼失後幕府より天守の再建が認められなかったが1810年に蝦夷地警備の功績が認められ隅櫓の改築を機に実質的に三層の天守とした。 ただこの天守は周りからは入母屋破風で貫禄あるが、内側からは破風無の質素な造りで、やや残念な感がある。 現在、百年ぶりの石垣の修理のため、天守が70m移動しておる。2028年頃には元に戻る予定で、この立地は今だけの貴重なものである。 |
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二の丸辰巳櫓(国重文) 1610年築 案内板 |
二の丸羊申櫓(国重文) 案内板 |
二の丸丑寅櫓(国重文) 1610年築 案内板 |
岩木山をうしろに、 初代津軽為信の顔出し看板 |
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追手門(国重文) 1610年築 花筏が有名だが、うーんイマイチ |
二の丸南内門(国重文) 1610年築 案内板 |
三の丸東門(国重文) 1610年築 案内板 |
二の丸東内門(国重文) 1610年築 案内板 |
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杉の大橋 | 下乘橋 藩主以外は乗り物から降りて 渡らねばならぬことから呼ばれている。 |
鷹丘橋 | 弘前公園最長寿のソメイヨシノ 日本最古級でもある。 案内板 |
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天守曳家 現在、百年ぶりの石垣の修理のため天守が70m移動しておる。石垣修復工事は2014(平成26)年から始まって、2026〜2028(令和8〜10)年度に完了予定 かつて明治〜大正時代にかけて石垣崩落による曳家が行われていた。 |
東海地方のお城(愛知・岐阜・三重・静岡) | |||||||
名古屋城 (復元天守) 日本100名城 | |||||||
関ヶ原の合戦後、徳川家康が江戸幕府安泰のための東海道の要所として築城。加藤清正・福島正則・前田利光ら20ヶ国の大名が普請に参加した。 徳川御三家筆頭・尾張徳川氏61万石17代の本城として栄えたが、太平洋戦争で空襲に遭い、一部の櫓、門を残して消失。 1959(昭和34)年10月に天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元。 五層六階の大天守、有名な金の鯱(しゃちほこ)に使用された金は1万8千両にものぼったという。 |
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本丸御殿着工準備中。金の鯱(しゃちほこ)レプリカ。本丸御殿復元完成予想図。 内堀に鹿。 2009.8 |
正門(明治43年に江戸城から移築されたが戦災にて焼失、天守と共に再建)。西南隅櫓 2017.10 | 西之丸より 2017.10 | |||||
いざ、天守へ | 天守より。 | 東二之門 イベントのお城 |
西北隅櫓(重文)特別公開中 | ||||
本丸御殿(第1期:玄関・表書院、第2期:対面所等、第3期:上洛殿:平成30年度中に復元工事完了予定) 奥に行くほど天井造りの格式があがってくる。 |
小天守前は対面所と売店 | 東南隅櫓 西北隅櫓 |
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清洲城 (模擬天守) | |||||||
本丸跡が清洲公園として整備され、清洲公園から五条川を渡ったところに 平成元年、三層四階の天守が築かれた。 往時はこのような天守だろうと想像して建てられた模擬天守。 |
清洲城内 桶狭間の戦い出陣前 |
清洲城展望 名古屋市内を望む 2009.1.11 |
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2021.4 | |||||||
岡崎城 (復興天守) 日本100名城 | |||||||
「家康出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏など家格の高い譜代大名が城主となった。 石高こそ5万石前後と少なかったが、諸大名は岡崎城主となることを誇りとしたようである。 |
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明治維新後、城は壊されたが城址公園として整備され、1959(昭和34)年に天守閣が鉄筋コンクリート造で復興された。 2009.8.2 |
岡崎城公園内にある「家康」銅像。 頭の上にハトが休んでいる。 |
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巽閣 龍城堀に架かる神橋 公衆電話 大手門 など 2017.12.10 |
日没前の天守 | 三河武士のやかた家康館の館内はほぼ撮影禁止 甲冑体験参考ポーズ |
17時よりイルミネーション開始 | ||||
ライトアップとイルミネーション。素晴らしいロケーションなのに人出が少ない。 | 龍城神社と天守 天守屋上から。 |
まだ紅葉が残っている。 2019.12.15 |
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吉田城 (復元鉄櫓) 続日本100名城 豊橋市 2014.7/27 | |||||||
戦国時代初期にその前身が築城され、その後今川義元統治を経て、家康の重臣酒井忠次を城代に、秀吉が天下人時代は池田輝政が15.2万石で統治。江戸時代では三河吉田の藩庁が置かれ、老中・大坂城代・京都所司代など有能な譜代大名が城主に選ばれ出世城と呼ばれていた。国替えが頻繁であったため天守は無く鉄櫓がその代わりをしたという。また本丸御殿は1707年の宝永地震で崩壊し以後再建されなかった。 | |||||||
豊橋公園内にある吉田城鉄櫓は昭和29年に再建された。毎週日曜日・祝日(10時〜15時)に内部公開している。 | 豊川越しの吉田城鉄櫓。 国道1号線の橋の上から |
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小牧城 (模擬天守) 続日本100名城 2014.8/31 | |||||||
標高86mの小牧山にはかつて織田信長の居城であった小牧山城があった。天守風建物は1967年に建てられた小牧市歴史館。 | |||||||
田原城 (模擬櫓など) 2015.7/26 | |||||||
松平氏に属した戸田氏の居城だったが、竹千代を駿河に護送する任を受けるも寝返って織田氏に送ったため今川義元の攻撃を受け城主戦死。その後今川氏家臣が入場するが桶狭間以後に松平氏譜代の本多広孝が入城、さらに家康が関東へ移封にともない吉田城に入城した池田輝政の持ち城となり石垣の修築や曲輪の整備などが行われた。江戸時代になると田原戸田家の支族が1万石の譜代大名として入り、1664年に三宅氏が1万2千石で入封し明治維新を迎えるまで治めた。最高裁判所の別名「三宅坂」は三宅土佐守の上屋敷があったことに由来する。 案内説明 | |||||||
桜門とその奥に二の丸櫓が見える。 | 桜門 | 二の丸櫓は、文化財収蔵庫で田原市博物館の一部となっている。 | 田原城郭の模型 | ||||
旭城 (模擬天守) 尾張旭市 2015.10/4 | |||||||
旧新居城の遺構で、1361年に新居村を開いた水野又太郎良春の四代の孫・雅楽頭宗国が築いた平山城。雇用促進事業団が昭和52年に勤労者福祉施設として建設し、平成15年に尾張旭市が譲り受け「旭城」を正式名称とした。 | |||||||
以外と立派な天守 | 天守展望から田んぼアート。 説明文 | コスモスの背景に天守 | |||||
竜泉寺城 (模擬天守) 守山区 2015.10/4 | |||||||
名古屋城の鎮護となっている尾張四観音の一寺院である竜泉寺境内に天守がある珍しいお城。織田信長の弟・信行によって築かれたが信長の謀略で清洲城で暗殺され竜泉寺城もまもなく廃城となった。現在は竜泉寺宝物館として日曜・祝日のみ開館している。 | |||||||
木々がジャマして天守全景が写せない。冬に来ればいい。 | |||||||
足助城(真弓山城) (復元櫓等) 2015.10/25 縄張図 | |||||||
発掘調査に基づき戦国時代の山城400年ぶりに蘇った・・・。15〜16世紀に鈴木氏によって築城され、2代目・重政の時に松平清康に攻められたため松平氏に属したが、3代目重直の時は今川氏に属し、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると松平元康が攻撃してきたため、松平に降り旗本となり、武田信玄が西三河へ進出してきた際、重直は城を武田へ明け渡して逃げたため一時的に武田氏のものとなったが、松平氏が後に奪い返した。家康の関東移封に伴い足助鈴木氏もこれに従い、廃城となった。 | |||||||
田峯城 (復元本丸御殿、本丸大手門、物見台等) 設楽町 2016.07/17 | |||||||
設楽町近辺は、東は今川氏、北は武田氏、西は織田氏と戦国時代の大名がせめぎあっていました交通の要塞の地であった。奥三河を領地とする菅沼氏は長篠の合戦で、徳川派と武田派に二分し骨肉の争いが勃発、徳川派についた一派が旗本として幕府に仕えた。 | |||||||
拳母城 (復興隅櫓) 豊田市 2016.10/9 | |||||||
七つの国が眺望できることから別名「七州城」とも呼ばれた。拳母城は矢作川氾濫により「桜城」建設を断念しこの地に建設された。内藤氏2万石として治められていたが明治4年取り壊された。 | |||||||
岩崎城 (模擬天守) 日進市 2016.10/9 | |||||||
天守とその隣の歴史記念館には歴史資料が展示されていて、ともに入場無料。手作り甲冑も展示されている。 | |||||||
大野城 (模擬天守) 知多市 2017.4.30 | |||||||
浅井三姉妹「お江」の最初の嫁ぎ先である、知多郡の国衆であった佐治一成(母は市の姉・お犬の方)は、小牧・長久手の戦いで家康に味方したため秀吉の怒りをかい滅亡した。「お江」は秀吉の甥と婚姻の後、秀忠の正室として嫁ぎ、家光や明正天皇の生母となる女子を生み、その血筋は現在の天皇家まで続いている。 | |||||||
大草城 (模擬天守) 常滑市 2017.4.30 | |||||||
信長が本能寺の変で死後、その弟・長益が築城した。長益は当初は大野城主だったが治水が悪かったので、ここに城を築いたが完成前に転封、未完成のまま廃城となった。 | |||||||
西尾城 (復元櫓など) 2017.5.14 | |||||||
三河国の守護に任じられた吉良氏の築城がはじまりで、戦国時代は城主が次々と代わり、1601年に本田氏が領主として入るもその後、太田氏・井伊氏で「総構え」の城を1657年に完成させたが、その後も譜代大名として頻繁に藩主が代わり、1764年に松平氏が西尾藩六万石の藩主となってからは廃藩まで五代続いた。 | |||||||
1996(平成8)年に古図を参考にして、本丸丑寅(うしとら)櫓が木造で復元された。 | 二の丸広場。旧近衛邸の石庭から櫓を望む。大名櫓型時計塔と旧近衛邸。本丸丑寅櫓からは見晴らしが良い。資料館も隣接され模型等の展示物あり。2014年に天守台が復元されたが、古図によると西尾城は二の丸に三重の天守が立ち多門櫓が付いていた。 | 本丸丑寅櫓と並行して、鍮石(ちゅうじゃく)門も復元された。 | |||||
城郭寺院 本證寺(ほんしょうじ) 2019.10.6 | |||||||
戦国時代に三河一揆の拠点となり徳川家康と争い建物は破却された。江戸時代になってから本堂や鼓楼・鐘楼などが再建され、境内地は国指定文化財で堀を巡らした城郭遺構が残る珍しい造りとなっている。 | |||||||
岐阜城 (復興天守) 日本100名城 2012.8/12 | |||||||
通称「マムシ」こと斎藤道三が、1539(天文8)年に「稲葉山城」として築城した。斎藤道三は息子義龍に殺害され、義龍の子・龍興の代に織田信長が稲葉山城を占領。 地名を「岐阜」とし、織田家の本拠とした。信長が安土築城後も嫡男の信忠の拠点であったが、親子ともに本能寺で死を遂げ、その後は信忠の子、織田秀信が入場するが、 関ヶ原の戦いを前に秀信は西軍に付くが、前哨戦で東軍に攻められ落城。秀信は高野山で出家し、岐阜城は廃城となった。 |
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昭和31年7月に復興された。 鉄筋コンクリート造り、三層四階構造 |
天守閣からの眺望。 長良川が市内を貫流している。 |
天守閣全体の撮影は難しい。 | 天守閣は標高329mにある。 | ||||
大垣城 (復元天守) 続日本100名城 | |||||||
関ヶ原の戦いに備え石田三成が入城したが、決戦の舞台が関が原となり手薄となった大垣城は東軍によって落城してしまう。その後譜代大名の戸田氏が10万石で入封。以後明治維新まで治世が続いた。 | |||||||
天守は1936(昭和11)年に国宝に指定されたが戦災により焼失、1959(昭和34)年に忠実に復元された。 2012.6.10 | |||||||
鉄門 鵜沼宿に保存 2023.6 鉄門説明板 本丸城郭図 |
宗門多門と丑寅櫓 2023.6 | 戌亥櫓と天守と戸田氏鉄騎馬像 | 天守 本末・天守の変遷案内板 |
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墨俣城 (模擬天守) | |||||||
秀吉の一夜城として有名。外観は史実上とは異なる(大垣城の天守を模している)が、墨俣一夜城歴史資料館として建てられている。 2012.6.10 |
当時は木曽川と長良川が合流しており重要な地点であったが、現在は犀川の流れに偲ぶしかない。 | ||||||
西側の千成橋から 2023.6 | 秀吉像とその後ろに謎の像 出世ひょうたん |
あじさい祭軌間。 お城北側に出世之神・豊國神社 |
天守 | ||||
郡上八幡城 (模擬天守) 続日本100名城 | |||||||
1933(昭和8)年に天守台跡に当時国宝だった大垣城をベースに4層5階の模擬天守閣・隅櫓・高塀が木造建築で再建された。 模造とはいえ天守閣は築60年をこえる日本最古の木造再建城であり、戦後の築城ブームで再建された多くのコンクリート製の城とは一線を画した美しさは、作家・司馬遼太郎をして日本で最も美しい山城と言わしめた。 2011.9/18 |
天守閣内部は木造 |
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郡上八幡城と紅葉のライトアップ。素晴らしい紅葉ロケーションでした。 2014.11/13 | |||||||
雪の郡上八幡城。ふもとから歩いて登りました。 観光列車「ながら」乗車・雪の郡上八幡城紀行はこちら 2017.01/15 | |||||||
東海北陸道直下県道61号より眺望 2018.1.21 |
天空の城視点 国道256号「堀越峠」 2020.10 | ||||||
岩村城 (復元太鼓櫓) 日本100名城 2014.1/3 | |||||||
「女城主」悲哀の物語が残る。海抜717mにあり、日本三大山城の一つに数えられる。 | |||||||
藩主邸太鼓櫓 | 本丸虎口の石垣(六段壁の異名を持つ) | 大手櫓門跡 | “東洋のマチュピチュ”と呼んでも相応しいほどの石垣が、今も当時の面影を偲ばせている。 | ||||
小倉山城 (模擬櫓など) 2017.12/3 | |||||||
高山城主・高山長近は関ヶ原の恩賞として美濃2.3万石の加増を受け、その地を自らの隠居城としたがその後後継難により幕府に没収され廃城となった。 | |||||||
一見、立派な隅櫓 | 天守を模造した展望台からの眺望は良好 | 小倉公園の中に城跡がある。 | |||||
苗木城 (天守展望台) 続日本100名城 2018.1/3 | |||||||
戦国期は遠山氏の居城であったが、1583年に森氏、その後川尻氏が領し、関ヶ原以後遠山氏が奪還し居城とし明治を迎えた。苗木城は1万石しかないのに天守を構えた珍しい城として知られている。 | |||||||
国指定史跡 | 天然の巨岩を利用し石垣が構築された懸造(かけづくり)の山城。展望台は天守三階床面を復元、見晴らし最高。立派な石垣の遺構は三階建ての大矢倉があった。 | ||||||
大桑城 (模擬天守) 2018.5.3 | |||||||
大桑(おおが)城は山県市にある古城山(別名:金鶏山)に、美濃守護土岐氏の守護所が置かれた城。山頂にはミニチュア天守があり、その周りには曲輪や石垣等の遺構が残っている。 年譜 | |||||||
神岡城 (模擬天守) 2020.8 | |||||||
神岡城は、戦国時代に江馬氏が築城したと伝えられ、江戸時代に一国一城令により取り壊された。 現在の神岡城は三井金属が神岡鉱業創業百周年を記念して昭和45(1970)年に丸岡城や犬山城を模して建てられた。 天守からは高原川を中心とした神岡町の街並みや日本一の立達磨を見ることができる。 |
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美濃金山城 続日本100名城 可児市 2022.6 | |||||||
石垣・互・建物礎石が残る織田豊臣系城郭として、国史跡に指定されている。守護代の系譜をひく斉藤家により1537年に鳥峰城として築城。1565年信長の家臣・森可成(もりよしなり)が城主となり金山城と改称。長可、蘭丸、忠政が城主となって、関ヶ原合戦以後に波城。一説には犬山城へ移築されたと伝承もある。 | |||||||
蘭丸ふる里の森として整備されている。 | 出丸跡 | 出丸跡から物見の櫓が見える | 本丸跡に石碑 | 天守台遺構 | |||
久々利城 可児市 2019.10 | |||||||
美濃守護・土岐氏の庶流・久々利氏の居城。東美濃に侵攻した信長の家臣・森可成(もりよしなり)の配下となったが、「本能寺の変」後、可成に謀反失敗、その後は森氏の番城となったが、関ヶ原合戦以後、森氏が松代へ転封となり廃城となった。 | |||||||
整備が行き届いている。 | 三の丸跡 | 二の丸跡 | 本丸跡 | ||||
明智城 可児市 2022.6 | |||||||
明智光秀を生んだ地として伝承されている。光秀の叔父の光安・光久の居城であった時に、美濃国の斉藤義龍の攻撃を受け落城した。 看板 | |||||||
桔梗坂。 | 大手門は雰囲気あり。 | 二の丸跡等 | 本丸跡に光秀ブロンズ像 | 展望台からは明智荘、馬防柵も雰囲気あり。 | |||
稲葉城 八百津町 2024.3 | |||||||
正式には「和知城」 秀吉に仕えていた稲葉右近方通によって1590年頃に築城された。 看板 | |||||||
復元された薬医門 | 稲葉家家紋付き天守風展望台 後方には兜を模した滑り台 |
眼下に木曽川が望める | 城跡周辺は稲葉城公園として整備されている | ||||
竹中氏陣屋跡櫓門 岐阜県指定史跡跡 垂井町 2022.6 | |||||||
秀吉の軍師であった竹中重治(半兵衛)の子・竹中重門が築いた。関ヶ原合戦で東軍につき不破郡岩手6000石を安堵され旗本として徳川将軍家に仕えた。旗本身分だったため城ではなく陣屋と呼ばれていた。 | |||||||
竹中重治(半兵衛)の銅像 | 立派な櫓門 | この地には半兵衛はいなかったのだが。 | 敷地を囲む堀や石垣があり、陣屋というより「城」の様相を呈している。 | ||||
伊賀上野城 (模擬天守) 日本100名城 | |||||||
藤堂高虎が築城。慶長年間、天守は完成間近に台風で倒壊し完成を見なかった。今の模擬天守は個人が寄贈したもの。 案内説明 模型 | |||||||
小規模ながら美しい大小天守。小田原城を彷彿させる。 2015.9.13 | 天守最上階より。 松尾芭蕉を祀る俳聖殿が見える。 |
天守は木造構造。忍者も演出している。 | |||||
久しぶりの訪問。 2023.10 | 松尾芭蕉を祀る俳聖殿 | 日本一・二の高さで有名な「高石垣」 | |||||
亀山城 (復元多門櫓) 2016.7/10 | |||||||
秀吉の小田原攻め功から岡本氏が近世城郭として天守閣も築城。江戸時代に入り幕府は松江藩主の堀尾忠晴に丹波亀山城の修築を命じたが、伊勢亀山城と間違え天守閣を解体させその後間違えに気付いたが取り壊した天守の復旧は許されなかった。 多門櫓が資料館として復元されているが、亀山中学校のグランド超しでしか全景は見られない。 |
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桑名城 (復元蟠龍櫓) 2016.10/16 | |||||||
2003(平成15)年にかつての蟠龍(ばんりゅう)櫓跡に水門の管理事務所を造るにあたって外観復元されている。中は資料館になっている(無料) | 本多忠勝像 | 城跡は「九華公園」として整備。 辰巳櫓跡には砲台も |
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津城 (模擬隅櫓) 続日本100名城 2020.11 | |||||||
津城は信長の弟(信包)の居城で、お市の方が柴田勝家と再婚するまでの2年間娘たち(浅井三姉妹)と過ごした地でもある。 江戸時代となった1608年に築城の名手として名高い藤堂高虎が伊予今治より津に移封され、近代城郭として大改修されると共に、伊勢神宮への街道を引込む城下町整備をし宿場町としても発展した。津藩は最大で32万三千石を有し明治まで藤堂氏が治めた。 |
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松坂城 日本100名城 2022.9 | |||||||
豊臣政権下で蒲生氏郷が伊勢12万石で築城。その後城主が度々変わり、1619年に紀州藩領となり代官が置かれ、政務に必要ない建物は次第に荒れていき、現在は往時の建造物は残っていないが、天守台をはじめとする石垣が保存されている。また三の丸には旧紀州藩の武家屋敷{御城番屋敷(国指定重文)」があり、しかも現在も子孫の方が住まわれている現役の住居である。 | |||||||
田丸城 続日本100名城 2023.2. | |||||||
田丸城は1336年に北畠親房が田丸山に城を築いたのが始まり。1575年に信長の次男、信雄が本丸・二の丸・北の丸を設け三層の天守を建てたが、 5年後に天守は炎上した。江戸時代には紀州藩徳川頼宜の家老久野氏が田丸城主になり明治まで城代を勤めた。明治4年に城内の建物は取り払われた。案内板 |
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石垣遺構。大手門跡から登り、 城内には中学校がある。 |
富士見門 案内板 |
天守台 | 本丸跡からの風景 | ||||
浜松城 (復興天守) 続日本100名城 | |||||||
徳川家康が遠州攻略の拠点として1570年に築城し入城。17年間過ごす。その後家康は関東へ移り豊臣家家臣入場したが、関が原の戦いで勝利するとその後は徳川家譜代の家臣が次々と配置・転封された。この城を治めた大名は老中にまで成ることも多く「出世城」とも呼ばれた。 | |||||||
昭和33年再建された模擬天守。 天守閣が実在した期間は僅かだったらしく、当時の資料は残っていない。2013.8.25 |
浜松城は家康というイメージ戦略をしている。ゆるキャラ「家康くん」も存在する。 | 平成24年10月から2年計画で、天守門整備工事をしている。 | 工事完了後のイメージ図 | ||||
「天守曲輪(くるわ)」の入り口に建つ「天守門」は明治6年に解体されたが、平成26年に天守門が原位置に復元された。 2016.9.18 |
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武将隊のパフォーマンスはなかったが、家康くんと直虎ちゃんや一部武将隊が登城した。 2020.2.23 |
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掛川城 (復興天守) 日本100名城 2013.8/25 | |||||||
今川家家臣の朝比奈家が築城したのが起源。桶狭間の戦い以降徳川家重臣の石川家へ、その後家康も関東へ移封されかわって山内一豊が城主となり掛川城と街を整備したが、関が原の戦い以降高知へ転封。その後徳川家譜代の家臣が次々と配置・転封され、最終的には江戸城を築城した太田道灌の一族が入城し明治維新まで続いた。1854年の大地震により天守閣など失われた。 | |||||||
山内一豊と内助の功で有名な「千代」か? 天守閣手前は太鼓櫓 |
山内一豊が天守を建立。当時はなんでも「東海の名城」とうたわれたらしい。 | 平成に入ってから市民の老婆が1億円を寄付。さらに市民からの寄付などで1996(平成6)に天守の復元完成。 | 木造で再建され、木造による平成の築城ブームのさきがけとなった。 | ||||
1854年の大地震で失った二の丸御殿は、1861年に再建された。(国指定重要文化財) | ここにも一豊と千代か? 現存する御殿建築は、二条城・川越城・高知城がほかに残るのみ。 |
二の丸御殿から天守を望む。 | 三日月堀から天守を望む。 | ||||
二度目の城攻め。前回は見落としていた大手門から。戦国期の山内一豊が築城、当時は「東海の名城」と言われたいた。御殿から見える天守がイイ。 2020.2.2 | |||||||
駿府城 (復元櫓・門) 日本100名城 2016.5/1 | |||||||
江戸幕府を開いた家康が1605年に将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは駿府城へ入り大御所政治を行う城として有名。1635年の火災にて天守閣や御殿、櫓などの大半を焼失、以後天守閣は再建されず。 1989年に市制100周年記念事業として巽櫓(たつみやぐら)が、1996年に東御門(櫓門)と続多門櫓、2014年には坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元された。 |
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巽櫓(たつみやぐら) | 巽櫓と東御門(櫓門)と続多門櫓の内部は伝統的在来工法によって復元された資料館。 内堀には弥次喜多像。公園内には家康像。 |
二ノ丸坤櫓(ひつじさるやぐら)も資料館として公開されている。 | |||||
展望台小山城 (模擬天守) 2015.3/8 | |||||||
榛原郡吉田町の能満寺山公園の地は、武田信玄が遠江をおさえる第一歩としてこの地に砦を築いたのがはじまり。1987年に犬山城天守をモデルにした模擬天守「展望台小山城」が設けられているが、過去に小山城に天守閣が存在した事実は無い。 | |||||||
ほとんど無名な存在だったが、3層5階のなかなか立派な天守閣。小さいながらも大手門も造られ、また三日月堀なども整備されている。 | |||||||
二俣城 2022.12 | |||||||
二俣城は二俣川と天竜川に挟まれた天蓋の城で、信玄と家康で激しく争った城として知られている。 また、信長の嫌疑で家康の長男・信康が幽閉・切腹した場所としても有名。 案内板 |
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戦国時代、今川家の支配下のあり松井氏が城主だったが今川家滅亡後には信玄へ従属した。その後家康に降伏し徳川家の所領となった。 三方が原の戦いの折には信玄の手に落ちたが、長篠の戦いで再び家康の支配下になった。、秀吉の北条征伐が終わると家康は関東転出となり、 代わって堀尾吉晴が浜松城へ入り二俣城はその支城となった。関ヶ原合戦以降堀尾氏が出雲へ転封になると二俣城は廃城となった。 |
関西地方のお城(滋賀・京都・大阪・奈良・和歌山・兵庫) | |||||||
長浜城 (復興天守) 2008.5/3 | |||||||
秀吉が初めて一国一城の主として築いた城。 現在の長浜城天守は昭和58年に天正時代の資料に基づいて再建されたもので、三層五階。 |
琵琶湖と長浜城 2008.5.3 |
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天守閣正面。 今年の大河ドラマは「軍師官兵衛」 |
展望室より琵琶湖を臨む。 2014.6.8 |
黒田家略系図 2014.6.8 |
天守閣とツツジ。 2014.6.8 |
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安土城 (天主なし・城址は国の特別史跡) 日本100名城 2015.7/19 | |||||||
天下統一の拠点として、それまで類を見ない大型の天守を持つ安土城が1579年に完成したが、その僅か3年半後に炎上してしまう。 天主模型 参考資料1 参考資料2 | |||||||
安土山全景 | 大手道 発掘後整備された。両脇に家臣の屋敷が建っていた。 | 大手道は直線で130mある。 眼下に東海道本線が俯瞰できる。 |
天主への道 | ||||
天主跡 | 城内にあるハ見寺(そうけんじ)三重塔(国重文) | 安土城天主 信長の館:1992年スペイン万博の日本館に安土城天主最上部が復元展示され、万博終了後に解体移築された。 | |||||
水口城 (復元出丸櫓など) 2015.9/20 | |||||||
三代将軍家光が京都に上洛するために築城された将軍専用の宿舎であった。家光上洛後はしばらく幕府の管理下にあったが、天和2年(1682)石見国から加藤明友が2万石で入り、一時は鳥居氏と城主を交代したが、再封して2万5千石で加藤氏が明治まで居城した。加藤氏は、将軍宿舎用の本丸御殿を使用せず、二の丸に御殿を建て居住した。本の丸御殿は、正徳3年(1713)に幕府によって取り壊された。 案内板 | |||||||
内堀と出丸櫓(水口城資料館)。堀には注水杭はなく今も水の枯れることがないことなどから、別名「碧水城(へきすいじょう)」と呼ばれる。 | 櫓は木造構造。近くの水口岡山城ではイベントで子供が入れる城の形のバルーンが設置される。 | ||||||
小谷城 (復元出丸櫓など) 日本100名城 2018.3.11 | |||||||
浅井氏の居城。永禄4年(1562)浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎え、織田家と同盟関係を結んだが、越前朝倉氏とも同盟関係にあったため、元亀元年(1570)信長の越前朝倉義景攻めに際し浅井氏は信長に反旗を翻した。同年、姉川の合戦で浅井氏は織田・徳川連合軍に敗北し、天正元年(1573)小谷城は落城、浅井長政は自刃し、浅井氏は滅亡した。 | |||||||
大手門の奥には歴史資料館がある。 | 小谷城の曲輪復元図 | 2011年NHK大河ドラマ「浅井三姉妹 江〜姫たちの戦国」放送記念 | 「番所」までは車で来れる。 その先「大嶽」まで約2Km |
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佐和山城 (復元石造) 2018.3.11 | |||||||
1582年の本能寺の変後、堀尾吉晴が入城。1590年には石田三成が入城し城を大改修した。関ヶ原合戦で石田氏滅亡後、徳川四天王の井伊直政がこの地に封ぜられ入城した。直政は新たに彦根城築城を計画したが、着手できないまま慶長7年に死去したため、嫡子・直継が佐和山城等の築材を利用し彦根城を築城。その後佐和山城は破却され廃城となった。 | |||||||
佐和山ふもとに、2007年に彦根城築城400年祭の一環として歴史的資料を参考に図面を作成、石造で復元された。 | 佐和山遊園にある、天守閣風建物と模型 | ||||||
二条城 世界遺産・日本100名城 2022.6 | |||||||
1867年、最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を宣言した歴史的な場所として有名。 現在の二条城は、将軍が京都に滞在する際の宿泊所として1603年から築城し1626年に完成した。かつては五層の天守も存在していた。 1750年の落雷のため天守を焼失、その後再建されず。また1788年に本丸御殿も焼失したが1893(明治26)年に京都御所内の桂御殿が移築された。 |
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東大手門 国重要文化財 | 東南隅櫓 国重要文化財 一階屋根に「千鳥破風」 西南隅櫓より一回り大きい。 |
西南隅櫓 国重要文化財 一階屋根に「唐破風」 東南隅櫓より一回り小さい。 |
北大手門 国重要文化財 正門である東大手門の控えの門として機能した。 |
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唐門 国重要文化財 二条城を象徴するきらびやかな二の丸御殿の正門。 |
唐門は、内側にも唐破風があり豪華 | 築地 国重要文化財 東大手門と二の丸御殿を隔てる豪華な塀 |
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二の丸御殿 国宝 | 二の丸御殿 車寄 玄関で牛車が止まった |
二の丸庭園 大政奉還は二の丸御殿・大広間で行われた。 | 本丸櫓門 二階部分に窓がない。 |
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天守台 かつては五層の天守が建っていた。 |
天守台からの眺め 本丸御殿は大修理中 |
鳴子門(左) と 桃山門(右) ともに国重要文化財 |
内堀風景 桃山門・本丸櫓門・鳴子門・天守台 |
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伏見桃山城 (模擬天守) 2015.6/17 比叡山横断紀行ついでに立ち寄り | |||||||
伏見城花畑跡に1964年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守など模擬天守が6億円(当時)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られたが2003年に閉園、模擬天守は無償で京都市に贈与されたが、耐震基準を満たしていないことから内部非公開である。 | |||||||
福知山城 (復元天守) 続日本100名城 2017.6.25 | |||||||
明智光秀が丹波の拠点として築いたのが始まりで、1600年頃完成。明治の廃城令で取り壊されたが、1986(昭和61)年に絵図に基づいて3層4階の天守閣が鉄筋コンクリート造にて復元された。望楼からの城下の眺めはとても良い。 | |||||||
丹後田辺城 (復興隅櫓・復興大手門) 2017.6.25 | |||||||
織田信長の命によって丹後を攻略した細川藤孝が丹後12万石を与えられ田辺城を築いた。本能寺の変が起こると親戚でもあった光秀の要請を断り剃髪して細川幽斎として田辺城にて隠居していたが、関ヶ原の戦いで西軍の軍勢を相手に籠城するが、幽斎が「古今和歌集」の奥義である「古今伝授」を唯一伝える者であったため後陽成天皇が仲介に入って西軍を引上げさせた。関ヶ原の戦功により細川藤孝・忠興親子は豊前中津に移り、替わって京極高知が信州飯田より入封、その後京極家は但馬豊岡に移り、牧野氏が入封、明治まで治める。なお、版籍奉還の際、紀伊田辺藩と混同をさけるため、城の別名である舞鶴城に因んで、地名を舞鶴とした。 | |||||||
大和郡山城 (復元櫓・復元大手門) 続日本100名城 2018.12.23 | |||||||
戦国時代に筒井順敬が築城、その後秀吉の弟の豊臣秀長が百万石の居城として整備された。増田長盛、江戸時代には松平家や本多家を経て、綱吉側近として活躍した柳沢吉保の息子が甲府から入封するとその子孫が明治維新まで領有した。 | |||||||
復元された大手向櫓(説明板)と大手門(説明板) | 大手門には「桐の紋」。天守台(説明板)が整備され展望施設として登ることができる。城内には奈良県指定文化財の奈良県立図書館がある。大手東櫓(説明板)や十九間多門櫓が復元されている。 | 大手東櫓・十九間多門櫓を見ながら、近鉄「しまかぜ」が力走する。 | |||||
大阪城 (復興天守・国の登録有形文化財) 日本100名城 2011.11/16 | |||||||
(初代)豊臣大坂城は1583年より15年の歳月を費やして完成した城で、1615年の大阪夏の陣で落城。 (二代目)江戸幕府により1620年から10年をかけて築城されたが、1665年に天守北側の鯱に落雷、焼失。 (近代)大坂城天守閣をシンボル的存在に復興したいという声に応えて、1931年に鉄筋コンクリート造りで完成。2011年で天守閣復興80周年。 復興天守は今や「3代目天守閣」として、初代、二代目天守閣よりも長く現存することに。 ちなみに、復興天守は豊臣時代の天守閣をベースにしながら、江戸時代の天守閣と折衷的なデザイン。 |
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青屋門から天守閣を臨む。 | 梅林から天守閣を臨む。 | 天守閣正面 | 天守閣より、西の丸庭園を臨む。 | ||||
天守閣上部 | 天守閣西側より | 日本庭園より 天守を借景とした庭園のたたずまいが楽しめる。 |
大手前広場より天守を臨む。 千貫櫓(左)・多聞櫓(右)の間に天守。 |
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岸和田城 (模擬天守) 続日本100名城 2018.2.18 | |||||||
秀吉の叔父にあたる小出秀政が三万石という石高に見合わず、五層天守で造営。1640年に摂津高槻より岡部氏転封。以後、岸和田藩は5万3千石で明治に至る。1827年の落雷により天守焼失。1954(昭和29)年に模擬天守としてコンクリート造で復興。 | |||||||
水堀も広く、立派なお城。内部は展示物は少なく屋上展望階は能舞台風壁板と模型のみ。二の丸公園から紀州街道沿いの町並みの中をマラソン大会、また公園内多門櫓はトイレ。 | |||||||
和歌山城 (復元天守) 日本100名城 2014.6/8 | |||||||
御三家の一つである紀州徳川家の居城。1619(元和5)年、徳川家康の10男、徳川頼宣(よりのぶ)が55万石で入城。 紀州徳川家出身の江戸幕府第八代将軍「吉宗」が有名、他に十四代「家茂」も紀州出身。 明治維新後は国宝になったが太平洋戦争で焼失。1958(昭和33)年に鉄筋コンクリート造で復元された。 |
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一重目屋根には比翼入母屋破風、二重目屋根に唐破風などの装飾が。隣には小天守も備えている。 | 乾櫓とその他一帯の櫓は天守閣と繋がっている | 御三家55万石の居城にしては、三重三階の天守は比較的小ぶり。 | |||||
洲本城 (模擬天守) 続日本100名城 (日本最古の模擬天守) 2017.4.22 | |||||||
1526年に安宅治興が築城した。以降城主は仙石氏・脇坂氏・池田氏を経て、大阪の陣の戦功により徳島城主・蜂須賀氏に淡路8万石を加増を機に蜂須賀氏の重臣・稲田氏を城代として明治を迎えた。 説明看板 | |||||||
総石垣のお城で歴史的価値もあることから国指定史跡に登録されている。昭和3年に昭和天皇即位を記念して築かれたが、予算不足もあり立派な天守台の上に四ツ脚の土台とミニチュア天守閣がちょこんとのっかている形態。ただ天守展望台からの眺めが良好き。 阪神淡路大震災前は天守の中に入場できたらしい、震災にも負けず石垣はあまり崩れなかったらしい。 | |||||||
赤穂城 (復元/櫓・門) 日本100名城 2018.4.22 | |||||||
1645年、忠臣蔵で有名な浅野家が5.3万石で入封。改易後は永井氏が5年治めてのち1706年から森家が2万石で入場し以後明治維新を迎えた。 赤穂城は5万石の浅野家には過度に広壮で五層天守造営の計画もあったが天守台のみ造営に終わった。 城郭配置図 |
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大手門と隅櫓 説明板 | 本丸表門と本丸櫓門。この日は本丸櫓門階上内部特別公開されていた。 | 天守台と天守台から見た景色 | 厩口(うまや)門。赤穂城の縄張りの大きさが伺える。 | 上:米蔵 下:西仕切門 |
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明石城 (現存櫓・土塀・天守台など石垣) 日本100名城 2019.6.13 | |||||||
1620年に一応完成する。本丸には天守台が造られたが天守閣は建てられなかったが、四隅に三重櫓、さらに城内には二層櫓が6基、一層櫓が10基と城門27棟あったらしい。 | |||||||
明治維新後、皇太子の御殿建設の計画があり解体された建材が、巽(たつみ)櫓や坤(ひつじざる)櫓の補強の為に使われ、その甲斐あって阪神大震災時は石垣は被害を受けたが櫓は壊れることなく存続した。 | 西側の櫓は、坤(ひつじざる)櫓。 江戸前期築、伏見城からの移築と云われている。(重文) |
築城400年を記念してこの日は巽櫓が公開されていた。 | |||||
尼崎城 (模擬天守) 2019.6.13 | |||||||
1617年に戸田氏が五万石で入封し、三重の堀と本丸には複合式四重天守と三棟の三重櫓を配した尼崎城を築いた。明治維新後に廃城令により取り壊された。 | |||||||
旧ミドリ電化の創業者が私財12奥円を投じ再建し尼崎市に寄付、阪神電車尼崎駅徒歩5分の地に2019年3月29日にオープンした。4層5階建ての天守閣はなかなか立派! 模擬天主の南にある尼崎市立明城小学校が本丸跡になり、校内には1940(昭和15)年に建てられたもう一つ尼崎城がある。 |
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甲信越地方のお城(長野・山梨・新潟) | |||||||
高島城 (復興天守) 続日本100名城 2016.7/24 | |||||||
諏訪一族に替わって、秀吉の家臣「日根野氏」により1592年に築城、1598年に完成。当時は諏訪湖の波が石垣に迫りさながら水中から城郭が浮き出した形となったことから「諏訪の浮城」と呼ばれていたが、江戸中期には諏訪湖の水位が下がり陸続きになってしまった。1601年には諏訪氏が領主に返り咲き明治を迎えた。ただ明治8年に城郭が取り壊されてしまった。 | |||||||
天守・櫓・門などが再建された。天守は独立式望楼型3重5階で、上部には華頭窓や外高欄縁も配置され桃山時代の姿を今に伝えている。 | 現在では諏訪湖まで約700m | ||||||
上田城 (復原櫓等) 日本100名城 2022.11 | |||||||
1583年頃に真田昌幸によって築城された。1585年の第一次上田合戦と1600年の第二次上田合戦で徳川の大軍を二度にわたって退けたことで、上田城の堅牢さと真田の知略を轟かせた。1874(明治7)年に上田優香邦払い下げられていた、左右の南櫓と北櫓が1943(昭和18)年から6年かけ再移築され、1994(平成6)年に2棟の櫓をつなぐ大手門が復元された。なお西櫓はは解体を免れ現存されている。 | |||||||
松代城 (復原遺構) 日本100名城 2024.2 | |||||||
松代城は川中島合戦時の武田方が築いた「海津城」がその始まりと言われ、1622年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城まで約250年間、松代藩真田家10万石の居城となった。 案内板 | |||||||
太鼓門と太鼓門前橋 説明板 | 北不明門 | 真田邸(新御殿)と信之像 | |||||
北陸地方のお城(福井・石川・富山) | |||||||
越前大野城 (復興天守) 続日本100名城 2014.7/6 | |||||||
1575(天正3)年、越前一向一揆を平定した織田信長は家臣の金森長近に大野郡の大半を与え、長近がこの地の亀山に築いた平山城形式の城郭がこの(越前)大野城。 その後江戸幕府が開かれた後は福井藩の直轄領を経て新たに立藩された大野藩の中心地となり、譜代大名・土井氏の居城として明治維新を迎えた。 |
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天守へは遊歩道を20〜30分かけて登っていく。 | 望楼付き2層3階の大天主と2層2階の小天主 | 天守展望 | 野面詰みの荒々しさをもつ石垣 | ||||
2023.7 再び登城 福井は恐竜推しがすごい 大野城も雲海に浮かぶ天空の城としても有名になりつつある 階段にうさぎの画説明 | |||||||
福井城 (復元 櫓門・御廊下橋など) 続日本100名城 2018.9.23 | |||||||
柴田勝家が築城した北ノ庄城の敷地を取り込み、家康次男の結城秀康が1600年に築城。四重五階の天守閣は1689(寛文9)年に焼失し以後は再建されていない。 「県都デザイン戦略」の1つとして福井城と周辺の歴史史跡などを整備し、櫓門・廊下橋などが復元され枡形が整備されている。 |
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北ノ庄城 (石垣遺構) 2018.9.23 | |||||||
朝倉氏の滅亡後、越前一向一揆を平定した功績により越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が築城した。安土城に匹敵する壮大な天守閣を持つ居城であったといわれているが、1583(天正11)年、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は城に火を放ち、妻である”お市の方”(織田信長の妹)と共に自害して果て、落城した。 | |||||||
一乗谷城 (唐門) 日本100名城 2018.9.23 | |||||||
越前を支配する朝倉氏の政治・文化の中心地であり、応仁の乱で荒廃した京を逃れた多くの公家や高僧、文化人達によって栄えたが、1573年(天正1)織田軍の越前侵攻によって放たれた火によって灰燼に帰した。 | |||||||
現存する「唐門」は江戸時代中期頃、朝倉義景の菩提を弔うために造られたと伝わる。現在は一乗谷朝倉氏遺跡として当時の町並みが復原され寸劇も行われていた。 | |||||||
金沢城 (石川門・復元櫓等) 日本100名城 2017.2.26 金沢観光紀行はこちら 金沢観光はこちら | |||||||
1583年、前田利家が領有し高山右近が築城。1602年の落雷で天守閣焼失、以後天守閣は再建されず。明治維新後陸軍省の管轄となり大半の建物を失い、1949年には金沢大学が城に置かれていたが、1995年に金沢大学移転を機に、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・河北門・橋爪門が復元さた。 | |||||||
石川門(重文) | 奥から橋爪門続櫓・五十間長屋・そして手前が菱櫓。すべて木造で復元されている。 | 他の城にはない美意識あふれるお城である。石垣やなまこ壁など、さまざまな工夫がなされている。 | |||||
富山城 (模擬天守) 続日本100名城 2017.2.26 富山紀行はこちら | |||||||
関ヶ原合戦の戦功により金沢城主となった前田利長は隠居城として富山城へ移ったが焼失、その後高岡城を築き移る。3代・前田利常の次男・利次に10万石を与えて分家させ、利次は富山城を修復し前田氏の支藩として富山藩が創設され、明治に至る。 | |||||||
天守閣は1954(昭和27)年、城址公園で富山産業大博覧会が開催された際「博覧会のシンボルになるものを築こう」の声に押され戦後の築城ブームの先頭を切って建設されたもの。 その天守は犬山城や彦根城を参考に造られた(似てないが・・・)模擬天守であるが、郷土博物館としてまた富山市民のシンボルとして定着している。 |
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中国地方のお城(岡山・広島・山口・鳥取・島根) | |||||||
岡山城 (復元天守) 日本100名城 2016.9/8 岡山散策紀行はこちら 後楽園観光はこちら | |||||||
1592年に宇喜多秀家が築城。関ケ原以後、小早川秀秋が入るが1602年無嗣断絶により改易。その後姫路藩主の池田輝政の子が五歳で藩主に、明治維新まで統治した。天守閣は国宝に指定されたいたが空襲で焼失、昭和41年に鉄筋コンクリート造りで再建された。 | |||||||
天守台は全国的に珍しい「不平等五角形」 | 月見櫓。戦火を免れ重要文化財に指定されている。 | 不明門。天守閣と同じく復元されている。 | 岡山城は、黒い下見板張りの外観から「烏城(うじょう)と呼ばれている。 | ||||
破風屋根にも金鯱 | なぜか金桃 | 天守内部 | 後楽園からの眺望 | ||||
津山城 (復元櫓) 日本100名城 2017.7.16 | |||||||
森蘭丸の弟・森忠政が関ヶ原の戦功によって、美作一国18万6千石を領し信濃松代から入封し、13年の歳月をかけ鶴山に築城した。元禄時代に森氏は改易となり、その後は越前松平嫡流家が津山10万石に封じられ9代続き明治を迎えた。津山城は日本三大平山城のひとつで往時は外郭を含めて77棟の櫓が建ち、広島城の76棟・姫路城の61棟をしのいだ。現在は鶴山(かくざん)公園として日本のさくら名所百選でもある。 | |||||||
復元された備中櫓 | 場内の石垣の壮大さに圧巻される | 備中櫓入口と内部 | 天守台から見る備中櫓。 天守台。 鶴山館と備中櫓。 天守台一望 |
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福山城 (復元天守) 日本100名城 2013.1/1 2013JR西日本紀行 | |||||||
西国鎮護の拠点として、徳川家康の従兄弟である水野勝成が、1619年に10万石で入府し築城した城。5層7階という大規模な天守閣。 一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。1698年5代藩主の早世により無嗣除封となりその後は阿部家が明治維新まで存続。 1945年8月8日の空襲で天守閣が焼失。1966年秋、市制50周年記念事業として天守閣のほか、月見櫓、御湯殿、鏡櫓が再建された。 |
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天守閣いろいろ | 天守閣より西側(広島方面)を望む 教会みたいな建物はスペインのブルゴス大聖堂をモチーフにした結婚式場 |
月見櫓 もともと伏見城内にあったものを移築したと言われている。 |
福山駅・新幹線ホームより | ||||
広島城 (復元天守) 日本100名城 2013.1/1 2013JR西日本紀行 | |||||||
1591年毛利輝元の新たな本拠地として築城。大坂城・聚楽第とその街並みに刺激されたものといわれている。 関が原の敗北により防長二カ国に削減され、広島城は福島正則が領有。しかし1619年に城の修築の届出を怠ったことなどを理由として転封。 代わって広島は紀伊和歌山城主だった浅野長晟が治めることになり、明治維新まで浅野氏が広島城を領有した。 築城時は、大天守1つに南と東に小天守を配置する方式をとっていたが、小天守は明治維新後に解体され、残った大天守も国宝に指定されたまではよかったものの、原爆投下により消滅。現在は、1958年に鉄筋コンクリート造で外観復元された大天守が建っています。 |
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大天守正面 | 天守閣内は奇妙なイラスト付説明があり楽しい。 | 小天守のあった石垣が見える | 天守閣を様々な角度から見る。 | ||||
三原城 (天守台のみ) 続日本100名城 2019.1.1 2019JR西日本紀行 案内板(史跡 小早川氏城 ・ 天守台石垣 ・ 三原城絵図 ・ 天守台跡移り変わり) |
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瀬戸内海の水軍を掌握していた毛利元就の三男である小早川隆景が、三原湾に浮かぶ大島と小島をつないで築いた海城で、 満潮時には海に浮かんだように見えることから「浮城」とも呼ばれていた。 明治27年に本丸跡を鉄道が貫き三原駅が開業、石垣の上に駅があるという珍しい光景が見える。天守台へ行くには駅コンコースから登る。 |
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岩国城 (復元天守) 日本100名城 2013.1/1 2013JR西日本紀行 | |||||||
関ヶ原の戦いで敗北し、領地を削減された毛利家の一族、岩国藩・吉川氏の居城として築城。1603年に工事がはじまり、10年かけて完成。山頂には三層四階の立派な天守閣がそびえたった。ところが、1615年、江戸幕府が一国一城令が出し、一つの藩(大名)に一つしか城を置いてはならぬとの命令が下り取り壊された。 それから時は流れ、1957(昭和32年)に岩国城の天守閣を復興することになり、名勝である錦帯橋との組み合わせを良くするために、本来あった場所よりも少しだけ移動し、そこに天守閣を造った。 |
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順光青空に映える天守閣 | 天守閣より望む 錦帯橋がかかる錦川 |
天守閣 | 錦帯橋との組合せ | ||||
九州地方のお城 | |||||||
小倉城 (復興天守) 続日本100名城 2015.1/1 2015JR西日本紀行 | |||||||
天守閣は1837年に火災で焼失し再建されなかったが、1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造りで再建された。古図を参考に観光用に大入母屋破風や千鳥破風・唐破風を追加している。 | |||||||
まずは定番の角度から | 小倉城400周年 | 天守閣 | 天守閣 | ||||
熊本城 (復元天守・宇土櫓含む12棟が重文) 日本100名城 2017.7.16 | |||||||
1607年に加藤清正により完成。家光時代に加藤家は改易され、小倉より細川家が移封、幕末まで存続した。 1877年の西南戦争にて西郷隆盛軍の攻撃にて、天主閣が焼失するも(政府軍が戦闘の目標にるのを避けるため天守に火を付けたと言われている)落城せず堅牢さを証明している。 2016年4月14日の熊本地震によって、石垣や建築物が数多く崩壊し甚大な被害を受けた。 |
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宇土櫓は構造自体に大きな被害は見られないもののある程度の修理が必要。 2003年に復元された戌亥(いぬい)櫓は、角石だけで櫓を支えている「奇跡の一本足」として注目を集めている。案内板 特別史跡ゆえに石垣の修復は、旧来の位置に戻すして復旧しなくてはならないらしい。案内板 |
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東日本のお城 | |||||||
小田原城 (復元天守) 日本100名城 2016.2/21 | |||||||
1495年に北条早雲が占領、これ以降北条氏の居城となるが、秀吉の小田原征伐にて滅亡。関東を与えられた家康は大久保氏に小田原城を任せ、江戸の守りとしての役割を果たした。明治に入り廃城解体となったが、1960年(昭和35年)鉄筋コンクリートで復元、また1970年に常盤木門を木造で復元、1997年に銅門、2009年に馬出門も復元された。 | |||||||
天守が近づき期待に胸躍る | なんと耐震工事中 | 足場が・・・ | また行きます。 |
面白いお城 | |||||||
札幌かに本家 豊田城店 2019.5 | |||||||
立派な模擬天守。店内は御殿風な造りで、殿様・姫様気分が味わえるそう。HP | |||||||
ぎふ初寿司 大垣店 2022.6 | 珍品城 2022.6 | 道の駅 織部の里もとす 2021.10 |
大西城 2023.10 | ||||
立派な天守。他のお店もお城風が多い。 | 養老町にある古今珍品情報流通センター | 城門風。 | 白鳥町にある模擬天守 大西組私有地のため立入できず |
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藤橋城 2022.7 | |||||||
「お城の中にあるプラネタリウム」として全国に知られている藤橋城は揖斐川町営。この地に城址の事実はない。 しかしながら三層四階建ての天守閣は風格さえ感じられる。 |
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ミニチュア姫路城 2019.7 | |||||||
伊勢市の個人が19年1800万円かけ作った1/23ミニチュア姫路城。立派な天守閣と櫓や御殿屋敷。(手書き案内図) 背後に電柱や人家が入らない土地を購入し引越しし、地道に作り上げたとか。 |
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模擬安土城 2019.4 | |||||||
日光江戸村グループの「伊勢戦国時代村」として、総工費300億円(うち安土城は70奥円)で1993(平成5)年に開村。開業当初年間200万人あった 来場者が現在は8万人まで落ち込み、経営母体も何度も変わり、2019年3月からの名称は「ともいきの国 伊勢忍者キングダム」に変更された。 安土城復元案を元にレプリカ建築として再現された天主の内部は歴史展示が興味を引く。 |
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松阪の威風堂々たる天守 2022.9 | 小田陸閘(おだりっこう) 2023.10 | ||||||
歯医者さんの建物みたいで、松坂城からも望める。 | 上野遊水地にある伊賀上野城の大手門をイメージしたデザインの陸閘。 | ||||||
道の駅 信濃路下條 長野県下條村 2022.6 | |||||||
「そばの城」と銘打っているだけあって大きな城郭風、門も立派 | |||||||
模擬勝山城 (私設博物館) 2014.7 | |||||||
勝山藩は1624年に松平氏が封じられ、その後小笠原氏が2万2千石で封じられ明治維新で廃城となった。その勝山城とは位置・形状ともまったく関係がない 「勝山城博物館」が郊外に突如と現れる。これは地元出身の関西の相互タクシー創業者:多田清氏が私財を投じて建設したもので、平成4年に竣工した。 ただ多田清氏は落成を見ずに平成3年にお亡くなりになりました。天守の高さは57.8mで現在日本一らしい。 勝山城近くにある清大寺の五重塔と越前大仏殿。これらも多田清氏が建立した。いくらバブル期とはいえ驚異の財力。 |
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太秦映画村 京都市 2022.6 | カレス幼稚園/保育園 奈良県天理市 2022.9 |
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大手門風建物は入出場口ではない。 | 天守閣風幼稚園/保育園 | ||||||
模擬尾道城 (旧博物館) 2014.7 | |||||||
隣の福山市の福山城復元に影響を受け、1964年に尾道商工会が観光事業の一環として外観を弘前城天守に模した施設「全国城の博物館」として建設したが 1990年代に閉鎖、廃墟化している。 |